■第九章:鳴神の箱

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■第九章:鳴神の箱

勝負の当日、道真主従は夜明けと共に屋敷内の泉水で身を清め、祖神に祈りを捧げた。

朝餉は摂らず、藤原家からの迎えを唯座して待った。

道真は白の狩衣を身に纏い、神事に臨む風情で瞑目していた。

やがて迎えが訪れると、梅若ともう一人の従者、そして牛牽きの老爺という三人を供に牛車で基経邸へと向かって行った。

梅若の背には細長い包み、中年の従者の背には四角い箱の様な形の包みが背負われていた。

「葛彦、荷物をしっかり頼むぞ」

梅若は先頭に立って歩きながら、後ろに続く中年男に声を掛けた。

「へい。お任せ下さい」

四角い包には、この数日葛彦が寝食を忘れて整えた道具が納められていた。

「何があってもお役に立てて見せます」

葛彦の目には思い詰めた光があった。

彼こそ一昨日の夜、北野の山中で道真の苦行を止めようとした従者であった。

意識のない道真を背負って、屋敷までの道程を運んだのも葛彦であった。

葛彦は道々何度も涙を流した。

「是程にお体を苛めねばならぬとは……。御労しや」

道真の苦痛を無駄にしてはならないと、雷神を降ろす仕掛の完成に精魂を傾けた。

葛彦は一族の「造り物師」であった。

梅一族は「鉄穴師(かんなし)」であり、紡織技能集団でもあった。

採鉱・砂鉄採取に関する土木、製鉄の道具、紡織のための繊維採取・機織機等、物作りの技術は多岐に渡っていた。

其の中で、葛彦は先人から伝わる道具に独自の工夫を加えて大幅に性能を高めたり、全く新しい道具を作り出したりする異才であった。

何時しか葛彦は一族内で工房を預かる身となった。

だが、如何に器用であろうと独りの工夫では成長に限界がある。

葛彦の才能を見抜いた道真は、彼に教育を与えた。

文盲であった葛彦に読書きを学ばせ、所蔵する書籍を惜しみなく貸し与えたのだ。

道真によって葛彦は書物の世界を知った。

彼にとって其れは夢の様な世界であった。

紙の上には何百年にも渡る先人の知恵が記されており、見た事もない土地や事物の知識がある。

葛彦は知の地平の果てしない広がりを初めて知った。

葛彦は貪る様に菅原家の書物を読み耽った。

中でも彼の興味は、やはり技術であり、物作りにあった。

菅原家の私塾である「菅家廊下」の学者達でさえ読み解けない技術情報に出会う時、葛彦は体の芯が熱くなるのだった。

理解できない記述に出会うと彼は飽く事無く思索を続け、自ら実験を繰り返した。

そして遂に書物に書かれた現象を再現する。

物を造り出す事、文字を現実にする事、其れは学者達には出来ない事であった。

「良う出来た」

仕上げた造り物を道真に褒められる時、葛彦は全身の膚が粟立つ。

彼にとって道真は既に神であった。

今、葛彦が背に負って基経邸に運ぼうとしている荷物こそ、道真に雷神の力をもたらす「鳴神の箱(なるかみのはこ)」であった。

葛彦の独創と言ってよい発明品である。

其の実体は「エレキテル」であった。

「摩擦式静電気発生器」と言っても良い。

箱に差し込んだクランクを廻すと、内部に取り付けた輪胴が回転し、異なる帯電性質を持つ物質同士を擦り合わせて電荷の移動を行うものである。

仕組みは単純であるが、遣り方次第では数万ボルトの電圧を発生させる事が可能である。

葛彦は様々な物質の利用法を探求する中に、静電気発生の現象を理解し、応用する事に成功したのだった。

「天道を妨げる者あれば雷神是を撃つ……」

葛彦は牛車の横を歩きながら、何度も繰り返していた。

やがて一行は、基経邸の入口に立った。

奥庭には仮小屋が二つ建てられており、一つは蹴速麻呂、もう一つは道真主従に控え所として与えられた。

小屋に案内されると、支度を理由に道真は半刻の猶予を願った。

蹴速麻呂の方はと言えば、支度と言うほどの事もなく、いち早く褌姿で現れるや辺りを動き回って体を解していた。

ざんばら髪はぐしゃぐしゃに固まり、垢が溜まった体からは風に乗って異臭が漂ってくる。

滴る汗まで黒く濁っていた。

庭に敷かれた毛氈に座を取った見物客には、思わず顔を顰め、袖で鼻を覆う者もいた。

「式部少輔の支度は、未だ成らぬか?」

流石に痺れを切らせて、基経が家令に様子を見させようとした正に其の時に、道真主従が仮小屋から姿を現した。

一同が驚いた事に、相撲の支度を整えていたのはどうやら道真本人だと見て取れた。

道真は狩衣を身に纏い、体を隠すように手で押さえていたが、其の下は褌一本の裸になっている様子であった。

「是は、式部少輔様! 御自ら相撲を為される御積りですか?」

基経の家令は驚きを隠せなかった。

殿上人が裸で相撲を取るなど、前代未聞、凡そ考えられる事ではなかった。

しかも相手は、薄汚い下人である。

「関白様、菅原の家を賭けて道真罷り越してございます」

道真は家令を無視して、基経に直接語りかけた。

顔色は青白く、狩衣の裾から覗く素足は細く頼りなかった。

両足に履物はなく、裸足で地面を踏んでいた。

「――」

まさかの事に基経は言葉が出なかった。

鉄と草の血脈-天神編Unde poveștirile trăiesc. Descoperă acum