そこは、理人の部屋から車で一時間半ほどの距離だった。
見慣れた街を抜けると、徐々に灯りが減ってゆく。武知の運転する車は迷うことなく暗い山道へと進路をとり、上へ上へと登っていった。暗い車内は心地よく空調が効いていて、とても静かだ。あまりの快適さに、うっかり本来の目的を忘れそうになる。
これから理人は、番が死んだ場所へと向かうのだ。
理人の胸は妙に高揚していた。番の死を生々しく肌で感じてしまうであろう恐れもあるが、そこへ行けば、これまでになかったものを感じ取れるかもしれないという期待もあった。汗ばむ両手をぎゅっと握りしめ、理人はゴクリと固唾を飲んだ。
一方、隣に座る景は、さっきから沈黙を守ったままである。
暗い車窓に、景の白い横顔が浮かび上がっている。その表情は凪いだ海のように静穏で、理人の抱えている緊張感などまるで関心がないといった様子にも見えた。
すると程なく、車が静かに停車した。山間のうねった道の途中に、車が一、二台停められる程度のスペースがある。
運転席の武知はすっと車を降り、スマートな動きでドアを開ける。恐縮しつつも車を降りると、そこは樹々の切れ目の開けた場所だった。月が照らす海がどこまでも見渡せて、とても眺めがいい。
そこはちょうど崖の上に張り出すような格好になっていて、視界を遮るものは何もなかった。
だが、古びた木柵の下は、まるで奈落だ。
しかも一箇所だけ、柵の色がまるで違う箇所がある。月明かりのおかげで目が慣れてくると、その色の違いは、柵を修理した跡なのだと分かった。
ちょうど、車一台が通れるほどの幅。
高科の車がこの柵を突き破り、遥か彼方にある地面に落下したという痕跡だ。
「……っ……」
月光に照らされているとはいえ、深い山々の谷間は漆黒の闇だ。そこに吸い込まれてゆく高科の車をついつい想像してしまい、あまりの生々しさに目眩を覚える。理人は口を覆って柵をぎゅっと握りしめ、想像してしまった悪夢のような風景を、必死で脳内から追い払おうと目を閉じた。
「理人、大丈夫か」
背後から、景の静かな声が聞こえてくる。その声に縋りつくように、理人は小さく頷いた。
「……だ、いじょぶ……」
「そう……。ここ、理人の知ってる場所だった」
「……いや」
震える指を拳にして、理人はもう一度目を上げた。だが、いくら目を凝らしてみても、ここは理人にとって何のゆかりもない場所である。激しい落胆が、理人の気分をさらに重く暗いものへと落としてゆく。
「この丸太の柵を突き破るってことは、高科氏の車はかなりのスピードが出ていたということになるな。すぐそこはカーブだ。山頂から下る最中にハンドル操作を誤って転落、といったところか」「……」「海が綺麗に見える場所だね。山頂のほうには、古い別荘地があるらしいよ」
「……別荘……」
「そう。行ってみる」
「ちょ……っと、待って……」
淡々と事実を語る景の調子に、まるでついていくことができない。
『かなりのスピードで』『柵を突き破って転落』それらの言葉は理人の頭の中でリアルな映像となり、運転席で恐怖に顔を歪ませる高科の姿までも、はっきりと想像させた。
「はぁっ…………はぁ……はっ……うぐっ……ぅっ……」
思わずその場に膝をつき、理人は激しく嘔吐した。つんとした胃液の匂いと味が粘膜を焼き、ぼろぼろと涙が溢れる。
「っ……はぁっ、はぁっ…………うっ……ごほっ……」
「武知、水を」
「はい」
汚物と涙にまみれたひどい顔で、理人は傍にしゃがみこむ景の姿を見つめた。景のどこまでも静謐な表情が、今は妙に腹立たしいような気分だった。