「ねぇ菅田さん。この間お願いしていた試薬のことなんだけど」
「ああ、はい、あれでしたらすでに到着済みです。リストをお渡ししていませんでしたね」「ありがとう。助かる」
堅物ベータ女性部下・菅田から試薬リストを受け取り、理人は自然な笑みを浮かべて礼を言った。
この二週間、理人は一度も欠勤することなく仕事をすることができている。
現在の主だった仕事内容は後輩のサポートとあって、一時期はプライドを傷つけられているような気もしたが、今はさほど、そういった卑屈な思いは感じない。
むしろその空いた時間で、これまで形にできていなかった研究データを、論文としてまとめる作業に取りかかることができている。高科が亡くなって以降、自分の研究テーマに関する実験は一切できていないため、実験ノートは真っ白だ。だが、それまでにいくつか試行していた実験結果について考察した結果、あらたな実験ルート構築の可能性が見えてきたのだ。後輩のサポートにも精を出しつつ、自分の研究にも時間を割くことが出来るようになってくると、現状もさほど悪いものではないように思えてきた。
それもこれも、今は景という存在がすぐそばにあるからかもしれない。
十五年を経て、ようやく互いに想いを通わせることが叶ったのだ。
とはいえ、この二週間、景とはメールのやり取りだけである。
理人への急激な接近が保護局内で問題となり、景は結局、別の部署へ異動となったのだ。
異動先は、法務省大臣官房付の秘書課だ。しかも『政策立案・情報管理室』という最もお堅い部署である。そこは頭脳明晰なオメガとベータが大半を占める部署で、アルファは一割にも満たないらしい。そこで景は日々、厳しい先輩たちに知識を叩き込まれているのである。そのため、なんだかんだと時間が取れず、なかなか会うことができていない。
だが、今夜は久しぶりに景と会える。理人は高揚と緊張でそわそわ落ち着かない気持ちを抱えつつも、努めて冷静に仕事をこなしていた。
自分のデスクに戻り、リストをチェックしている理人に向かって、珍しく菅田が声をかけてきた。
「……最近、少し元の調子に戻られているようですね」
「え あ……うん、まぁね。おかげさまで」
「落ち着いたかと思ったら、また欠勤が続かれたりしていましたが……」
「んー、ちょっとね、色々ごたついてたんだけど、それが落ち着いたからさ」
「……そうですか。何よりです」
菅田はシルバーフレームの眼鏡をくいと押し上げ、再びパソコンのモニターを睨みつけはじめた。生真面目で堅物な女性部下からの、不器用な言葉かけが嬉しくて、理人はにっこりと笑顔になった。
「心配かけてごめん。いつもありがとう」
「えっ」
すると、菅田の顔がボボッと真っ赤に染まった。そしてさっき以上に鋭い目つきでモニター画面を射殺しながら、「べ、別に心配なんて。元気になったんなら、早く仕事に戻ってください」と早口に言った。
「そうだね、ごめんごめん」
理人は苦笑し、改めて仕事に向かい合う。
いつしか季節は盛夏となり、ぎらぎらと照りつける真夏の太陽が、窓越しに理人を照らしている。
「遅くなってごめん、理人」
「いや……全然。ど、どうぞ……」
景が理人の自宅に顔を出したのは、二十三時過ぎだった。
玄関を開けると、ぱりっとした白いワイシャツを身につけた景が、麗しいまでに優しい表情で微笑んでいる。
嬉しいのに気恥ずかしくて、ついついそっけない口調になってしまう。だが景はそんなことを気にする様子もなく、「お邪魔します」と言って理人の部屋へ入ってきた。
「仕事、慣れたか」
理人は、ベッドに腰掛けネクタイを外している景に向かって、そう声をかけた。すると景は、キッチンにいる理人の方へ目線をくれながら、穏やかな笑みをひとつ浮かべた。