もう、まともに呼吸ができなくなっている。
必死で酸素を求めて喘ぎ、がくがくと全身を震わせる理人を後部座席のシートに横たえ、景は内ポケットから二粒の錠剤が入った小さな袋を取り出し、ぴりっと破いた。
片手でぐっと理人の顔を上向かせ、口の中に錠剤をそっと含ませる。そして景はペットボトルの水を口にすると、何の迷いもない動きで理人の唇を覆った。
口移しで与えられた水が、ひんやりと喉を通っていく。反射的にそれをごくりと飲み下せば、錠剤も一緒に体内へと落ちていく。
「はっ……、はっ、はぁっ……け、い……っ……」
「持って来ておいてよかった。すぐに収まるよ」
ふ、ふ、ふっと必死で息をしながら、理人は震える瞼を持ち上げて、間近にいる景を見上げた。景は無関心を決め込んでいたさっきまでとは打って変わって、慈愛に満ちた優しい微笑みを浮かべている。その表情の変化に戸惑いを隠せないが、少しずつ、少しずつ、塞がっていた気道が緩んでいくのを感じ、理人の全身を安堵が包む。「……はぁ……はっ……どうして……」
「……ん 何」
「どうして……おれを……」
「まだ喋らない方がいい。大丈夫、俺がずっとそばについてるから」
「ん……」
ふわ……と柔らかいものが、理人の頬に触れている。朦朧とする意識の中、それが景の唇だと
気づくまでに、少し時間がかかってしまった。
「けい……」
「かわいそうに、こんなに苦しんで。……あの男のせいだな」
「あの、男って……」
「理人と番ったくせに勝手に死んだ、身勝手で嘘まみれなアルファ野郎のことだよ」「え……」
聖母のように美しい顔で、景は冷ややかにそう言い放った。
景が何を言っているのか分からず、理人はただただ呆然とすることしかできない。
疑問を投げかける隙は与えられず、すぐさま景に唇を覆われていた。
「んっ……け、ぃっ……ンっ……」
ついさっき嘔吐したばかりだというのに、景はねっとりと理人の中へ舌を挿し入れ、粘膜という粘膜を柔らかな舌で撫ぜ回した。理人は反射的に腕を突っ張り、突然のキスに抵抗しようと試みる。
だが、景はやすやすと理人の手を制し、たおやかな見た目からは想像も出来ないほどの力で、理人を捩じ伏せた。
「けいっ……ばか 何してっ……んっ、ふぅっ……」
革張りのシートの上で完全に組み敷かれ、理人はただただ戸惑うばかりだ。だが、景のキスはあまりに巧みだ。あやすように優しく、時に雄々しく、緩急をつけて口内を愛撫されるうち、肉体はそれを快楽と捉え始めていた。
互いの唾液が唇を濡らし、口づけの隙間に熱い吐息が漏れ始める。
こんなふうに誰かと接触するのは久しぶりだ。とうに忘れていた肉の快楽は、理人の欲望を激しくぐらつかせ始めた。だが、何もかもが分からないことだらけで、戸惑いと疑問が理人の理性を叱咤する。
「やめろ……っ やめ……ンっ……」
「……ねぇ理人。ここで昔、何があったか、覚えてない」
「……え」「二十二年前、この場所で悲惨な事件があった。……オメガ人身売買に関わる悪党どもが、別荘
に滞在していた一つの家族を、バラバラに壊したんだ」
「……は……」
唐突に、景は低い声でそんなことを語り出す。
理人の戸惑いは深まるばかりだ。理人は、高科の死に場所をここへ確認しに来たはずだ。なのに……。
「人身、売買って……何それ」
「理人も聞いたことがあるだろ 昔、番を失って精神を病んだオメガを使って、商売をしていた奴らがいたってこと」
「……へ…… そ、そりゃ……知ってるけど……」
「心を壊したオメガを集めるだけじゃない。奴らはね、敢えてオメガの前で番のアルファを殺すんだ。そして、パニック状態になったオメガを攫い、身売りをさせる。……そういう手口を使う一派が
いたんだよ」
「な……」
想像するだけで、ゾッとする。あまりにリアルにその光景を想像することができてしまい、理人の身体は芯から冷え、ガクガクと細かく震え出す。
「……そ……れが、俺と、なんの関係があるっていうんだよ……」
「ここに滞在していたのは、学者として高名をあげていたアルファ男性と、その番のオメガ男性。二人は研究者としてもパートナー同士だったらしい。そして、二人の間には、幼い子どもが一人いた」
「……子、ども」
「……そう、それが理人。そしてその時殺されたのは、理人の両親ってことだ」
――……こいつは、一体何を言ってるんだ……。俺の親…… ここで殺された…… な、何
だよそれ……。
全く身に覚えのないことで、にわかには信じがたい内容である。
理人はただただ愕然とした表情のまま、食い入るように景を見つめることしかできない。
「……ど、どうしてそんな話するんだよ……。俺、俺の家族が、ここで殺された ……そ、そんな
わけない、そんな」
「じゃあ、この家を見た瞬間、理人はどうしてこうなったんだ きっと身体の奥底には残ってるんだ。その時の恐怖が」
「……な、なんだよ、それ……意味わかんねーよ、そんな……っ」
どういうわけか、ぼろぼろと目からは涙が溢れる。そんな理人を哀れみに満ちた瞳で見下ろしながら、景は淡々とこう続けた。「番を目の前で殺されたオメガは半狂乱になり、犯人ともみ合いになった。そして激しい抵抗の末、石の暖炉に頭部を強打し、亡くなった」
「……は……」
「幸い、理人は連れ去らずに済んだ。使われていなかったその暖炉の中に隠れていて、男たちの目を逃れたんだそうだ」
「だ、だからそれ……っ……何なんだよ それが良知に、なんの関係があるっていうんだ
よ」
大声で問いかけた直後、理人は最悪の可能性を察してしまった。
唐突に動きを止めた理人の目から、涙だけがすうっと伝って落ちる。
景は小さくうなずいて、淡々と事実を述べた。
「……そう。高科良知は、その事件に関わっていた」
「ッ……」
ひゅうっと、喉の奥で呼吸が止まる。
すぐ間近にある蜂蜜色の瞳が、酷薄にすっと細まった。
その瞬間、理人の脳裏にとある風景がフラッシュバックする。
黒塗りの闇の中に縮こまった幼い自分。
大勢の男たちの怒声が響き渡る室内。
わずかに開いた細い隙間から見た、真っ赤な色。
そして、暴力によって獣のように興奮した男の目が、まっすぐに理人を捉えた、その瞬間の絶望。
記憶の中に浮かび上がるその顔は、慣れ親しんだ男のものと、よく似ているような気がして ――
ガタガタと全身が震えだし、呼吸が詰まる。
理人は激しく頭かぶりを振って、ぐしゃっと自分の髪を掴んだ。
「うそ、うそだ、うそだ、そんな、うそ、しらない、そんなの」「理人の番が、理人から家族を奪ったんだ」
「……や、やめ……ろ。やめて、やめろよ……っ……」
「こんな酷むごいこと、許せないだろ そう思わないか、理人」
自分の叫びをどこか遠くに聞きながら、いつしか理人の意識は深い闇の中へと沈んだ。