景は指の背で理人の頬をさらりと撫で、どこか懐かしげな眼差しで理人を見つめた。
「理人は思った通り、オメガだった。それで『温室』に入ったってところまでは知ってたんだけど、そこを出てからのことは分からなくて、随分つらい思いをしたよ。オメガ保護法に基づき、『温室』は情報へのセキュリティが厳重だ。なかなか調べられなくて」
「……そうだったんだ」
「ああ。……理人にもう一度会いたい、理人の前に立った時、恥ずかしくない人間でいたい。その
想いが俺を励まし、俺を回復へと導いた。死ぬ気で勉強して、アルファに負けないだけの知性と力を身に付けたくて、……ものすごく努力したよ。本当は、もっともっと上へ登って、どんなアル
ファにも負けない権力を手に入れてみたかった。でも、今の身分が精一杯だったけどね」
ちら、と景が芦屋のほうへと視線をやった。
理人もつられてそちらを見ると、芦屋は、傷ついたような表情で景のことを見つめている。
「芦屋さんまで、そんな顔しないでくださいよ」
「……ひでぇ話だ。お前をそんな目に合わせた奴らを、この手で半殺しにしてやりたいよ」
「……庶民出身のアルファであるあなたじゃ、到底無理な話ですよ」
「む……」
景は平坦な口調でそう言うと、再び理人の方へ視線を戻す。そして、そっと理人の頬を拭った。
「泣かないで。涙がもったいないよ」
「……でも……そんなの、おかしいじゃん、ひどすぎんだろ…… お前をそんな目に遭わせとい
て、そいつらは今ものうのうと生きてんだろ……」
「この世界じゃ、よくあることだ。俺はもう平気だよ、理人」
「そんなわけ……」
俯いて涙していた理人は、ガバリと顔を上げて景を見つめた。
すぐそばにある景の顔は薄笑みを浮かべているが、瞳の奥には深く昏い悲しみを湛えているようにしか見えなかった。
「……それに、のうのうとは生きていない。やつらは全員、今は人の手を借りなければ生きていら
れない状態だから」
「え……」
「あの事件が起きた五年後、ほとぼりが冷めた頃に……彼らはクルージング中の事故で瀕死の
状態に陥ったんだそうだ。一命は取り留めたみたいだけど、チューブやモニターに繋がれていなければ、呼吸も排泄も出来ない状態らしい」
「え……な、なんだよそれ。まさか……」
「そう、恐らくは、父の仕業だろうな。冷酷な父のことだ、夜神の家名に泥を塗ったやつらを、放っておくわけがない。……まぁもっとも、俺には何も聞かされてないし、薄汚れて使い物にならなくなった俺は、あの家から縁を切られたわけだけどさ」
ぞっとするようなことを、まるで世間話でもするかのように語る景の顔は、まるで作り物の人形のように冷たい。
しばし三人の間に沈黙が落ち、重い空気があたりを包んだ。
白を基調とした景の部屋は明るくて、清潔で、おぞましくも生々しい事件を語るには不似合いな空間に思える。だが景は何事もなかったかのように、小綺麗に整えられた風景の中、優雅な動きでコーヒーを飲んでいる。
「じゃあ……あのアルファは何者なんだ。昨日、お前を車に押し込もうとしていたあいつだよ」
と、芦屋が硬い声でそう尋ねた。景はちらりと芦屋のほうを見遣り、何事かを逡巡するかのように口を閉じる。
衝撃の事実を知ったばかりで、頭はうまく回ってはいなかったけれど、それも理人にとっても気にかかっていた事柄だ。理人は景の腕にもう一度手を添えて、重ねて尋ねた。
「さっき芦屋さんから聞いた。……景、昨日変なアルファに絡まれてたんだって」
「まぁ……そうだね」